屈折を通して見る世界
2010年6月25日
プールを上からのぞくと、まっすぐに引かれたはずのプール底のラインがゆがんで見えます。水面が揺れると、それにあわせてラインも揺れます。「このプールの底は、ゼリーみたいに柔らかいのかなぁ」なんて思ったことがありませんか。
ところが、ドブンとプールに飛び込んでみると、プールの底は平らで固く、ラインもまっすぐ引かれていて揺れたりなどしません。空気中という世界から、水中という別の世界をのぞいていたので、ゆがんで見えたのですね。ふと、水中から空を見上げると、雲も太陽もゆがんで奇妙な形になっています。今度は空気中が別世界になってしまったのです。

子どもの頃、大人がぺこぺこお辞儀をしたり、何かもらったから同額お返ししなきゃといったりする様子を見て、「イヤだなぁ。ああいう大人にだけはなりたくないな」と思っていたのに、いざ大人の世界に入ってみるとそれなりに意味があったり良さがあったりするんだな、と関心することもあります。
プールにドブンと飛び込まなくても顔だけ突っ込めばゆがみのない水中が見えるように、ある世界にどっぷり入り込まなくても顔を突っ込むだけで様子がわかる場合もあります。ろう者が手話で夢中になって手をヒラヒラさせてしかめっ面をしたりオーバーな表情をしている様子を見て奇妙に感じた経験があるかもしれません。ところが、手話を学んでみるとそれが一つの確立された言語であること、顔のオーバーな表情も手話の文法の一部なんだと気づきます。
自分のよく知らないことを、まっすぐ素直受け止めるのはなかなかむずかしいものですね。人はそれぞれ、自分の慣れ親しんだ常識や「今のフツー」という屈折角度、フィルターで考え、感じ、結論してしまいがちです。
と同時に、そういった人それぞれの「屈折」が、世の中を多様にしているともいえます。
駅でおばあさんがステン!と転んだ場合に、それを見ていた人々はそれぞれの多様な屈折角度で反応します。
あ。痛そう、と思う。
すぐ助けなきゃ、と駆け寄る。
今度設計する建物では、ああいう段差をなくそう、とメモする。
自分も転ばないように気をつけよう、と慎重になる。
人が転ぶときはあのような動きになるんだな、とアニメに取り入れる。
年配者が転んでも怪我しにくい保護サポーターがあったらいいな、と思って商品化する。
10人が10人、かわいそうと思ってすぐに駆け寄るストレートな人である必要はなく、世の中のそれぞれの分野でその体験を活かしていくことで幅と深さを社会に加えていけばよいのでしょう。
屈折角度があまりきつくなり過ぎて、おばあさんが転んだだけなのに、
「社会はオレをのけ者にしている」とか、
「よし、このオレなら世界征服も夢ではない!」
などと感じてしまうと、本人も周囲の人も不幸になりかねません。
また、まったく屈折角度ゼロのストレート過ぎても、
「ほら部長!チャックが開いたたままですよ!」
なんて大声でいってしまいますから、ほどほどの屈折を心に秘めているくらいがいいのかもしれません。心の屈折度なんて自分で調節しにくいですけどね。

